「養生法の第一は、自分の身体をそこなう物と内から生ずる欲望と外からやってくる邪気とである。…そこで内から生ずる欲をこらえて少なくし、外部からくる邪気を恐れて防ぐことができれば、たえず健康で元気はつらつとして、病気にかからず天寿を全うすることができよう」と、益軒は述べている。
いつの時代でも、人々は健康に注意をはらう。益軒は後世の人々に名著『養生訓』を残し、八十五歳の天寿を全うした人物であった。
彼は医者として主君に仕えるつもりだったが、学才を認められ、木下純庵らと交わり、朱子学に傾倒、儒学者となった。三十六歳からの文筆活動も大変なもので、『養生訓』は八十四歳の作である。
益軒は、九州は筑前福岡城の官舎で生まれ、父寛斎は、黒田藩の祐筆であった。十二歳で母と死別、十九歳で継母とも死別、長兄は夭折、という具合に家族の悲劇にあっている。そのため、「たえず健康で元気はつらつとして、病気にかからず天寿を全うすること」が、彼の願望であったのであろう。
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