
明治の学問は、すべて西洋の学問が闊歩していたが、西田幾多郎によって東洋的な基盤に立った東西哲学との融合が作りあげられた。
著書『善の研究』『思索と体験』は、当時のインテリの驚異の的だった。
“京都大学に西田幾多郎教授有り”と東京の学生たちが、聴講に赴いたというエピソードが残っている。
日本における哲学の祖といわれたのも、そのためであった。
母と姉の激励がなかったら西田はなかったといわれる。
米相場に失敗し窮乏した家計の中でも、母は蔭で学資を送り続けたし、姉の精神的な支えも大きかった。
また、四高時代の北条教授の説得に従っていたら数学者になっていたかもしれない。
彼の底流にあるものは、母の信仰ににあった。彼の哲学的思考は仏教の禅の研究から出発したといっても過言ではない。
今日の世界中の学者たちは、哲学の源泉はインド哲学にあったと認めている。
仏教哲学がインド哲学の直流だとすれば、西田哲学が世界に通ずるのは当然であろう。
晩年は鎌倉に住み、研究に専念し、昭和十五年に文化勲章を得ている。
墓は五輪塔で祀られている。苔だらけの質素な中央墓一基である。
戒名 |
曠然院明道寸心居士 |
玉垣 |
- |
職業 |
明治・大正・昭和期の哲学者 |
境石 |
37cm |
没年齢 |
75歳 |
竿石 |
90cm |
所在地 |
神奈川県鎌倉市・東慶寺 |
石質 |
花崗岩(灰色系) |
墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
五輪塔 |
正面入り口の方位 |
北 |
台座 |
2段 |
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1987年現在の資料に基づいております。