
法然上人は、岡山県美作国久留米南条稲岡で生まれた。彼が9歳のときに父の漆間時国が殺され、孤児になってしまった。孤児の運命は坊さんになるよりほか生きるてだてがなかったので、彼もその道へ進むことになる。法然の師匠は、都の叡山にて修行したほうが出世のチャンスも多いだろうと、彼を送り出した。それほど法然は大秀才であったようだ。叡山に登った彼は徐々に頭角を現している。彼の学問の情熱が募れば募るほど、叡山の堕落を感じ取っていた。そして叡山の上層部の僧たちは、学問よりも家柄によって定められ、貴族の子供が必ず叡山の座主になっていた。この矛盾が法然を嘆かせていたに違いない。法然が新しい仏教信仰の旗を立てた底流はそこにあったと思う。
“ナムアミダブツ”“南無阿弥陀仏”と、念仏を唱えれば人々は救われる。明るい念仏こそ、仏教を民衆のものにする。法然上人は43歳のとき、叡山を降り、専修念仏を旗印に浄土宗を開いた。しかし、新しい世界には必ず既成宗教の圧迫やら弾圧が伴う。親鸞もそう、日蓮もそう、道元もそうだった具合に、法然上人もまた激しい抵抗にあった。そして、弟子のスキャンダルが因で、承元元年(一二○八)土佐に流罪になる。建暦元年(一二一一)には許されて都へ帰ってきたが、間もなく彼は帰らぬ人となった。79歳だった。
法然上人の墓は、廟型式で具体的に見ることができない。おそらく埋葬された上に、後代の人々の手によって廟がつくられたのだろう。正面の向きが東南。やはり功なり名をとげた人の世界であろう。岡山県にある法然の実家の墓とは別々に祀られているのは淋しい。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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