
明治のはじめ、天竜川の治水に一生を捧げた金原明善は、その天竜川のほとり、遠江国(静岡県)浜名郡和田村安間(あんま)の大地主の家に生まれた。
しばしば氾濫し、猛威をふるう天竜川に、流域の村々は悩まされ続けていた。そして慶応四年五月には、沿岸の百二十ヵ村が水没するという大惨事に見舞われたのである。このとき明善は、自ら八百両を出し、募金で集めた金を足して、崩れた堤防を直したのである。それ以後は水害対策のために奔走する。『治河協力社』を設立し、二十五カ年計画で天竜川大改修を行おうとしたが、役人からは相手にされず、“安間の川狂い”と嘲られることさえあったという。
明治十年、明善は、内務大久保利通に訴え、先祖代々の財産を差し出すことを条件に、県庁から資金を出させて治水工事を進めた。やがてこれが政府の事業として受け継がれ、明治二十三年に完成。政府は六万円を返そうとしたが、明善はそれを受け取らなかった。
その他にも、更生保護事業の創始者としての顔や、大規模な植林を行った人物としての顔を持つ偉人である。
空を見上げるばかりの立派な墓は、財産も命も使い果たした男にふさわしい。
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