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横井英樹

愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家に二男として生まれた。
高等小学校卒業後、15歳の時に上京。
東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公し、2年弱で独立し、「横井商店」を設立。第二次世界大戦終結後、GHQ出入りの商人となり、進駐軍への衣料品の販売や横田基地、立川基地の家族住宅の設営で一財産を築いた。
この時の取引先の一つに老舗百貨店、白木屋の関連企業である白木金属工業があり、何時まで経っても決済できないので同社の内情を調べると、親会社の白木屋が経営的に不安定だったことが判明。
これを動機として同社の乗っ取りを決意、1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)までにかけて日活の堀久作と手を結び白木屋の資本金2億円、額面50円として発行済株式総数400万株のうち100万株を買い占めた。
堀の持ち株を含めると過半数となり、経営権を握れる寸前まで行った。ところが堀が所有した株を突如売却。堀の所有した持ち株は山一證券を経て三信建物の林彦三郎に渡ってしまう。
ホテルニュージャパンも買収した一社であったが、1982年(昭和57年)2月8日にホテルニュージャパン火災が発生、全焼した。横井は行きすぎた合理化を画策し、徹底的なまでに建設費用を節減するため、スプリンクラー設備等の消火設備を整備せず、内装も耐火素材にしていなかった。
こうした数々の違法運営により1987年(昭和62年)、東京地裁で業務上過失致死傷罪で禁錮3年の有罪判決を受け、1993年(平成5年)に最高裁で確定した。1994年(平成6年)から東京・八王子の医療刑務所で服役したが、1996年(平成8年)に仮釈放となり、1997年(平成9年)には刑期を終えている。

横井英樹

一方、横井は焼けたホテルを放置し、敷地を担保に巨額の融資を引き出した。最大の債権者だった千代田生命がバブル崩壊後の1995年(平成7年)に自己競落し、火災から14年後の1996年(平成8年)に解体した。その後千代田生命が破綻したため、プルデンシャル生命が買収した。
1991年(平成3年)には、秘密裡にニューヨークのエンパイアステートビルを買収。ただし、同ビルは所有権と賃借権が分離しており、ほとんど利益が出ないまま撤退。
横井は1950年(昭和25年)に蜂須賀元侯爵から3000万円を借りていたが、その内2000万円を払っていなかった。依頼され東洋郵船を訪れた安藤組組長安藤昇の取り立ても拒否した横井は、1958年(昭和33年)6月11日に安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役)に拳銃で銃撃された。(横井英樹襲撃事件)
晩年には叶姉妹とも交流があったともいわれ、パーティーの写真が週刊誌に載ったこともある。
また、ニュージャパン火災以降、犠牲になった台湾人観光客の遺族を生涯にわたって毎年慰霊のために日本に招待し続けたとも伝えられる。田園調布の駅前の一等地に豪邸を構えていた。生涯、資産に執着したが、最後の砦である自宅を死去する一ヶ月ほど前には手放し、その後は弟夫婦と暮らしていた。1998年(平成10年)11月30日、虚血性心疾患のため85歳で死去。
荼毘に付された横井の遺骨からは銃弾が一発発見されたといわれる。
蝶ネクタイ姿で知られた。本人の弁では「時は金なり、結ぶ手間がもったいない」というのが愛用の理由だった。
ヒップホップ歌手でキングギドラのメンバーのZEEBRA(ジブラ=37)が、初の自伝で祖父横井英樹について赤裸々につづった。ラッパー生活20周年を記念した著書「ZEEBRA 自伝 HIP HOP LOVE」(ぴあ)が2008年12日に出版された。

戒名
 
玉垣 花壇式
職業 実業家 境石  
没年齢 享年85歳 竿石  
所在地 東京都府中市・多磨霊園 石質 黒御影石
墓の方位   墓のスタイル 堂塔型
正面入り口の方位 西 台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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