
全盛期には、その当時の税金の運上金を一万両も納め、大船十七艘を所有したといわれる高田屋嘉兵衛は、明和六年(一七六九年)淡路島の貧家に生まれた。二十二歳で兵庫に出て回船船頭のもとで働き始め、みるみるうちに才能を発揮し、四年後には自ら千五百石積船を建造するまでになり、海運業者としての一歩を踏み出したのである。その後、函館に渡り回船業を始めたが、事業は順風満帆に運び、松前藩の海運御用を受けたり、兵庫・函館間の物産取扱いを独占した。
着実に富を手中にした嘉兵衛だが、思わぬ事件に巻き込まれてしまう。ディアナ号事件である。測量で北海道に寄港し、捕らえられたディアナ号の海軍少佐ゴロウニンの身柄引き渡しの調停者として、日本とロシアの間に立って働くことになるのである。嘉兵衛自身も、ロシア船に捕らえられカムチャツカに連行されたが、のちに釈放され、ゴロウニンも無事帰国し、ロシアからの厚い信任を得た。しかし、幕府からは密貿易の嫌疑がかけられ、これが高田屋没落の原因となってしまうが、すでに嘉兵衛は六年前に淡路島で生涯を閉じていた…。
墓は、北の豪商にしては墓石そのものが小さい。だが、大地にしっかり根を下ろしている感がある。
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