
1865年伊万里で一番の陶器問屋に生まれる。6歳の時に父と死別、母は再婚して離別する。親戚の家を転々幼少時代を過ごす。
幼少時には伯父より商売を覚えろと天秤棒とざるに桶、五十銭をもらい、こんにゃくを売り歩いた。それをみたこんにゃく屋の主人が「質が落ちるが見た目は同じのこんにゃくを安く卸すから売ってみないか?」といわれたが、「儲けはすくなとも、悪い品物を扱いたくない」ときっぱり断る。伯父より商売のありかたを身につていいたのである。
横浜の陶器問屋に奉公し、やがて東京へ出向するも店が苦境に。さらに世話になった陶器店の危機を救うため、大量の陶器とともに24歳で渡米。しかし、これも失敗に終わる。見知らぬ異国の地で無一文になり、公園のベンチで目覚めた森永の目に止まったのがキャラメルの包み紙だった。これが運命の出会いとなり、森永の人生を大きく変える事になった。
3ヶ月後、2度目の渡米で製菓製造技術を学ぶ。厳しい人種差別の中でも一心不乱に働き初渡米から12年で帰国し、1899年赤坂に「森永西洋菓子製造所」を創業。2坪の小さな工場で、マシュマロ、チョコレート、キャラメルなどを作り、ガラス張りの箱車で行商。後に森永製菓と改称し、ミルクキャラメルを大ヒットさせる。天使の子供が翼を広げた森永のエンゼルマークは、「子供に喜びを」という願いからデザインされたものです。太一郎は好奇心が旺盛で、当時旅客機がはじめて飛び立つというニュースを知り、チケットを求めたが、1便は埋まり、2便しかチケットをとる事ができなかった。しかし運良くそばを運ぶ為の飛行機にのる事ができ、さらに飛行機の着が当初の1便よりも早く大阪に付、日本初の有償旅客機の第1号の客となった。
引退後はキリスト教の伝道に尽くし、73歳で亡くなりました。
戒名 |
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玉垣 |
80cm |
職業 |
明治・大正・昭和期の実業家 |
境石 |
30cm |
没年齢 |
73歳 |
竿石 |
110cm(幅41cm 奥行39cm) |
所在地 |
東京都港区・青山霊園 |
石質 |
花崗岩 |
墓の方位 |
南 |
墓のスタイル |
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正面入り口の方位 |
南 |
台座 |
上38cm(幅66cm 奥行65cm) 下42cm(幅94cm 奥行94cm) |
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