

志摩国鳥羽浦の大里町出身で安政5年1月25日生まれの経営者。
御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。
幼少期「うしろに目があるような人」といわれ商売の才があった祖父と発明好きで表彰されたこともある父の教育を受ける。
家業のうどん屋「阿波幸」だけでは食べてはいけないと考え、14歳にして家業と同時に青物の行商を始める。その後時代に合わせた商売をし、1878年横浜への旅をきっかけに、地元鳥羽の天然真珠は商売になりえる。と考え、海産物商人になる。一方では志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加し、鳥羽活性の原動力となり、地元の名士となっていた。しかし当時は世界の貿易でも真珠が高値で取引されており、真珠を生むアコヤ貝が乱獲され絶滅の危機にあっていた。
このままではいけないとアコヤ貝の養殖を始めるが、真珠のない貝はほとんどが無価値であり会社が傾きかける、その後貝の養殖ではなく真珠の養殖に目的を変える。1890年から多くの技術者や学者そして仲間とともに養殖真珠の研究を始める。しかし途方もない研究に力を貸すものは少なくなり、身内だけが協力するという心もとない時間が多く過ぎていく。その3年後には半円真珠が付着している貝を発見。その後10年以上もの歳月をかけ、ついに真円真珠を完成させ特許を取得。1918年には大量の良質の真珠が得られるようになる。1927年にはエジソンと会見し、ミキモトパールを見つめ絶賛。当時のニューヨークタイムでも大きくとりあげられ、ミキモトの名前は世界へ轟くこととなる。1954年老衰のため96歳で死去。真珠の養殖だけにとらわれず、真珠を宝石市場の中心へと押し上げた。
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