
岐阜県海津郡の豪農に生まれた武藤山治は、子供のころから不正が許せない性格だった。
学問を愛する政治家であった父、国三郎の影響を受けて、創設間もない慶応義塾に学んだ。
卒業後十九歳で渡米、見習職工として学ぶ。帰国してからは、日本で最初の新聞広告取扱業をはじめた。
また、英字新聞『ジャパン・ガゼット』に勤めて当時の官憲政治の言論圧迫と闘った。
その後、三井銀行から鐘紡へと転職し、財界人としても頭角をあらわしはじめた。
天性の事業欲とアメリカ仕込みの敢闘精神で業績を伸ばし、大正十年には社長に就任する。
合理的経営主義とヒューマニズムで鐘紡を経営した彼は、共済組合や社内報の発行などを日本で最初に手掛け、常に従業員の福祉を図った。
後に政界革新をとなえて衆議院議員となり、また時事新報の再建に乗りだしたのも、悪を憎む彼ならではである。
しかし、その彼も昭和九年、鎌倉で暴漢に狙撃され没した。
戒名 |
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玉垣 |
無 |
職業 |
大正・昭和期の実業家・政治家 |
境石 |
無 |
没年齢 |
68歳 |
竿石 |
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所在地 |
兵庫県神戸市・舞子石谷山 |
石質 |
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墓の方位 |
東南 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
西南 |
台座 |
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1987年現在の資料に基づいております。