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団琢磨タイトル

団琢磨の墓

 1858(安政5)年福岡藩士馬廻役の四男として生まれる。
寺子屋に通い漢籍を習い、12歳のとき福岡藩海外留学生だった米国帰りの平賀義質に英語を習い始め、 そのころ上級武士の家格のある団尚静の養子になった。
その養父について上京し、13歳のとき、岩倉具視ら特命全権大使の欧米視察団に同行。 そのままアメリカに在留し、マサチューセッツ工科大学(MIT)で鉱山学を学び、1878年卒業し帰国した。
その後、官営三池炭礦へ就職したが、そこでは長州閥に頭を押さえられ窓際族の辛酸をなめることとなる。 しかし、三井の実力者、益田孝が彼の実力を買って民間払い下げの三井鉱山へ就職する。
彼は益田の期待を裏切らず、手始めに三池の港を整備し、鉄道を敷き、 大牟田川を浚渫し出炭量を飛躍的に高めた「三大工事」を成功させ、 その上で巨額投資を必要とするポンプを輸入して水没した勝立坑の排水問題を解決した。
明治三十年代、三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜き三井物産と肩を並べるようになり、 三池が「三井のドル箱」といわれ、三井財閥形成の原動力となった。 こうして彼は、三池をバックに三井財閥の中で発言力を強め、益田の後を受け三井合名会社理事長に就任、三井の最高指導者となる。 さらに工業倶楽部の理事長、そして日本経済連盟の会長など、昭和初期における財界の最高指導者として活躍した。
しかし、昭和7年3月5日、東京・日本橋の三井本館入り口で血盟団員の1人に射殺された。
黒の墓碑、短い竿石、祀り方の不統一等の特徴が凶弾に倒れた生涯を物語っているような墓である。

戒名 浄心院殿宏徳琢磨大居士 玉垣 160cm
職業 明治・大正・昭和期の実業家 境石 50cm
没年齢 75歳 竿石 太く短い・92cm
所在地 東京都中央区 石質 黒色系
墓の方位 墓のスタイル 奇型の部類に入る
正面入り口の方位 台座 3段・高さ82cm
1987年現在の資料に基づいております。
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