与謝野晶子を語る時、まず出てくるのが、反戦歌の“君死にたまうことなかれ”の歌だろう。日露戦争当時、弟に送った血の叫びの歌だった。1901年、家を捨てて上京し、処女歌集『みだれ髪』を出版した。この歌集は<明星派>の指標となるとともに、近代日本文学史上浪漫主義詩歌の成立をつげる記念碑的な作品となった。それ以来、明治、大正、昭和の三代にわたり、歌壇の大御所的な存在であった。
日本だけでなく、フランスやイタリアではいまでも、“日本のアキコ”で親しまれている。また歌壇ばかりでなく『源氏物語』『栄華物語』その他の古典の口語訳を、わが国で最初に試み、日本文学の普及につとめたり、さらに小説『明るみへ』を書いたり、晩年は文化科学院学監兼女学部長までしていた。
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