
芭蕉は幼少の頃から父与左衛門から俳句の手ほどきをされていた。 十歳の頃藤堂良忠に小姓として仕え、主君も俳諧をたしなんでいたので、自ずと芭蕉も熱が入っていた。十三歳の折、父や主君の死を機に、京都に出て学問に励み、伊賀の宗匠としてその力を認められ出した。芭蕉が、風雅一筋以外に自分の生きる道はないと、悲壮な決意を固めたのは四十歳だったという。彼は生涯妻子はなかったといわれていたが、若い頃の妻、寿貞に次郎兵衛という男の子を産ませていた。四十九歳になって捨てきることのできない宿縁の寿貞が連れ子を伴って、芭蕉の新庵に転がり込んできた。彼女は妻とは認められなかったが、病死するまで芭蕉を見とどけたのである。
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