

1886年上京後、尾崎紅葉・江見水蔭を訪ねて小説の筆をとり始めるとともに新体詩も作り、
1897年宮崎湖処子編「抒情詩」に詩集「わが影」を発表。
1898年石橋愚仙編「山高水長」に「つかね緒」が収録され、
浪漫的詩人、紅葉一門の小説家として知られた。
1899年長篇小説「ふる郷」を出版。
1902年「重右衛門の最後」を出すにおよんで文壇の注目を集めた。
日露戦争に従軍。1906年「文章世界」主筆となった。
07年に発表した短篇小説「蒲団」は作者が自己を赤裸々に告白した作品として好評を博し、
自然主義文学の代表作といわれたのみならず<私小説>
のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。
その後自然主義を代表する作家として1908年「一兵卒」「生」「妻」1909年「田舎教師」1910年「縁」
1911年「髪」等、旺盛な創作ぶりを示すとともに、
客観的写実を主張する<平面描写>の理論を明らかにした。
岩野泡鳴とは対照的に行為者であるよりも観察者であり、晩年は宗教への強い関心を示した。
享年59。島崎藤村の書を刻んだ墓は多磨霊園にある。遺志により土葬されたという。
(参考文献:コンサイス 日本人名事典・ウィキペディア(Wikipedia))
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