
本名・佐藤とし。1884(明治17)年生まれ。それ以外の出生や家族については不明。
小さい頃から探偵小説を愛読しており、明治35年彼女が18才のとき幸田露伴に弟子入りした。
佐藤露英の名を与えられ、樋口一葉についで小説家として初めて傑出した女流であった。
本能のままに生き、自我に目覚めた女性を描いた作品が多く、大正3〜4年にかけて質・量共に最良のものを残した。
主な作品に「女作者」「炮烙の刑」「木乃伊の口紅」等がある。
また、当時鋭い感覚と放埒な血潮、都会的な情調と情趣を濃厚に備えた女性であった俊子は、世間の多くの非難に対してかえって偽善者ぶってみせたりする面もあった。
晩年はカナダで18年間を過ごしたが、帰国後、精神的にも時代的にも圧迫された冬の季節であった。
その後、中国へ渡り、大戦末期の上海・陶晶孫の晩餐会からの帰路の途中脳溢血におそわれ黄包車上から昏倒、そのまま昏睡状態を続け3日後に帰らぬ人となった。
墓は昭和26年4月の七回忌に岡田八千代、湯浅芳子、佐多稲子ら「俊子の会」の手で建てられた。
自然石でできたこの墓碑は岡田八千代の書を白く刻み、石組みの花生には数輪の白百合の花がひっそりと傾いている。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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