
「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」
啄木を語るとき、この歌は忘れられないものの一つである。彼の歌には、貧困についての作品が多いので、生まれながらの貧者であったように考えられがちだが、啄木が二十歳のころ、父が渋谷村宝徳寺の住職を追われてから、石川一家の転落がはじまった。悲惨に明けくれた啄木、素晴らしい作品の数々を残したものの、生きる十字架を背負うが如くに、生活苦と病に倒れ、家族たちも若く、幼い命を絶ってしまったのだった。長女と次女は二十四歳、十九歳の若さで他界し、妻節子も二十八歳でこの世を去っている。
貧困に苦しみながら、啄木は明治四十五年四月十三日、二十七歳で病没。死後、業績が友人たちの手で全集にまとめられ、戦後になってから啄木研究がさかんに進められた。
墓は、親族が建立したものではなく、知人、友人が記念碑をかねて立待岬に建立したものである。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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