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三好長慶タイトル

三好長慶の墓

1522年2月13日(大永2年)生まれ。戦国大名。三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市出身。父は阿波・山城守護代三好元長。
幼名千熊丸、通称孫次郎、実名ははじめ範長。伊賀守、筑前守、修理大夫。
1532年(天文元年)に父元長は細川晴元に疎まれ、同6月一向一揆の攻撃で非業の死を遂げたが、長慶は翌年12歳にして早くも本願寺と晴元の講和を斡旋するなど軍略と勢威に非凡さをみせ、同3年10月には木沢長政の仲介で仇の晴元に帰参した。
同8年一時晴元に背くが、8月摂津越水城主となり摂津西半国守護代となる。
同11年3月には河内太平寺で長政を敗死させ、晴元被官中最大勢力に成長した。
同16年7月、摂津舎利寺の合戦で細川氏綱、遊佐長教の連合軍を破り、その勢いで晴元から離反、氏綱を擁し、同18年6月摂津江口の戦で晴元軍に大勝、入京して天下人となる。
その後、数年間は将軍足利義輝、細川晴元らと抗戦・和睦を繰り返すが、同22年7月義輝・晴元連合軍を京都霊山に破って将軍らを近江へ追放、事実上の独裁政権を樹立した。
江口と霊山の戦勝は、1493年(明応2年)以来畿内政治を規定してきた細川宗家による京兆家専制を解体し、のちの織田信長政権のモデルとなる権力を構想したもので意義は大きい。
1558年(永禄元年)、京都霊山の戦いで足利・細川軍を破ったことを機会に義輝と和睦し、自らは幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。
さらに堺の経済力を握り、有能な弟たちに軍を預けて、河内や大和、丹波に転戦して、畿内に一大政権を築き上げた。
同年、山城を失うが翌年河内和泉を、翌々年には大和を併合、本拠を摂津芥川から河内飯盛山に移し、分国数では北条氏と並ぶ大大名に成長する。
晩年は家宰松永久秀の台頭に押され、嫡子義興を失い、将軍義輝との調整に悩みながら失意のうちに病死。文芸に秀で、連歌の名手でもあった。

戒名 聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門 玉垣  
職業 戦国時代の武将 境石  
没年齢 永禄7年7月4日(1564年8月10日) 43歳 竿石  
所在地 大阪府堺市・南宗寺 石質  
墓の方位   墓のスタイル 宝筐印塔
正面入り口の方位   台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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