なぜ光秀は反逆の汚名を受ける破目になったのだろう。怨恨説、野望説、前途に対する絶望説など、さまざまの説がいまだに光秀に向けられているが、知っているのは光秀自身だけだろう。放浪の前半の人生、四十一歳になって信長にひろわれ、信長の信任厚く、インテリだった光秀の出世は、秀吉・勝家とともに家臣中の異例のスピードだった。わずか十年で丹波一国を所領した光秀。しかも光秀自筆の「明智軍法十八ヶ条」のなかで<自分は石ころのように沈んでいたのを、信長に認められ今日になった。信長の恩義は終生忘れられない>とはっきり述べている彼が、“ナゼ”本能寺の変を起こしたか、人の心は計りしれないものだ。
たしかに信長は革命児として残虐非道をやってのけたかもしれない。この戦国時代は喰うか喰われるかの城取り物語の世界だ。秀吉だったら笑って信長に対処したであろうが、インテリの光秀には我慢できなかったに違いない。そしてまたインテリの弱さが災いしたといっていいだろう。
墓石は、信長と同じ自然石であるが、二〇五センチもある巨石である。
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